第4回  ブライトリングクロノマット

1969年に日本のセイコーが世界初のクォーツ時計を発表し、機械式時計を中心としていたスイス時計産業は大きな打撃をうけました。
俗に言う、クォーツショックです。すべての製品に対して高品質化、低価格化が求められていたその時代に、クォーツ時計より精度が劣り、高価であった機械式時計は衰退の一途を辿りました。
1980年代に入り、機械式時計を見直そうという動きがでてきました。時計という製品には、極めて高い嗜好性と文化性があったため、単に高精度と低価格だけでは、顧客を満足させることはできなかったのです。
そして、機械式時計の復活に挑んだブランドの1つがブライトリングでした。1979年、後継者難とクォーツショックによる経営難で危機に陥っていた、ブライトリングを引き継いだのが、アーネスト・シュナイダー氏でした。
シュナイダー氏には、機械式時計は他の精密機械とは違い、数百年の歴史があり人類の英知が築いてきた文化があるので、まだ10年の歴史しかないクォーツが機械式時計を完全に駆逐できるわけがない、という信念がありました。
また、非常に安価な時計が大量に出回ることにより、時計を大切に扱うというメンタリティーが低下していったことに、強い危機感を持っていました。
シュナイダー氏は、ブライトリングの時計はあくまでプロのパイロットのための計器である、という精神のもと、3つの事業の柱を構築しました。
1つは、ブライトリングの精神を最も受け継いだモデル、ナビタイマーを最新のスペックでしっかり継承すること、最先端のテクノロジーを駆使した、プロ仕様の実用モデルを開発すること、そして新生ブライトリングを象徴する全く新しい機械式クロノグラフを誕生させることでした。
その中で最大の課題は、新しい機械式クロノグラフを誕生させることでした。それは、過去のどのモデルにもない「現在」を象徴するデザインとクォーツ全盛の時代に逆行する、自動巻のクロノグラフでなければなりませんでした。 そしてなによりも、プロのパイロットのための計器であるという、ブランド哲学を具現化させるスペックを搭載している必要がありました。そして1982年に転機が訪れました。イタリア空軍がアクロバットチームである「フィレンチェ・トリコローリ」のためのオフィシャルクロノグラフを公募したのです。
ブライトリングは開発を進めていた新型クロノグラフを公式クロノグラフとして応募しようと考えました。他の時計メーカーは既存のクロノグラフで応募したところを、ブライトリングのみイタリアに行き、パイロット達と会って、具体的な要望を聞きました。 もともと要求されていたスペックは10Gの荷重に耐えられる屈強なクロノグラフという条件でしたが、実際パイロット達の話を聞いて、視認性や操作性、扱い方など、色々と再考慮すべき点が多数出てきました。
その結果、ある程度出来上がっていたデザインを全て白紙に戻して、最初からデザイン設計をやり直しました。その結果、完成した、プロのパイロットのニーズを集約した機械式クロノグラフこそが、クロノマットでした。
パイロット用としては始めての回転ベゼル搭載、ガラス保護と回転し易さ、および経過時間、残り時間のどちらにも対応可能にしたネジ留式ライダータブ、フライトジャケットを脱ぎ着するときに引っかかりにくいラグとリューズ、プッシュボタンなど細部にいたるまでパイロットのための配慮がなされていました。
クロノマットが「フィレンチェ・トリコローリ」のオフィシャルクロノグラフに決まったのは言うまでもありません。
1984年クロノマットはバーゼルフェアで発表されました。これはこの新しいクロノグラフが市場の評価を受けることを意味していました。
当事、市場はクォーツ一色の時代でしたので大きな賭けでしたが、販売を開始すると予想をはるかに越えた反響がありました。大量の注文が入り生産が追いつかない状態になりましたが、絶対に品質を落とすこと無く作り続けました。 それがブライトリングへの、大きな信頼につながりクロノマットは時計史に残る大ヒットを記録しました。そしてそれは低迷していた機械式時計復活への起爆剤ともなったのです。 そして2004年、クロノマット誕生20年を迎えて、全面改定したクロノマットレボリューションが発表されています。